2023年11月、米国のSquint(スクィント)というスタートアップが、Sequia CapitalがリードするシリーズAラウンドで、1,300万ドル(≒19億円)調達しました。
同社はモバイル端末で動作するARアプリを用いて工場労働者の作業手順トレーニングをデジタル化していますが、ここに技術発展が著しい生成AIが組み合わさることで、AR活用がより発展しているようです。
今回は、Squintの事業を深掘りすることで、AIによって製造業のAR活用がどのように進展するか、考察してみたいと思います。
なお、為替レートは12月25日時点のものを使用しています。
Squintとは
Squintは、2023年3〜4月に初めての外部資金調達を行い、600万ドル(≒9億円)を確保しましたことをプレスリリースで発表しましたが、プレシード・シードラウンドにしては比較的大きな調達金額であること以上に読者を驚かせたのは、すでにSiemens・Volvoといったグローバルメーカーの名前が顧客リストに入っていたことです。
Squintを創業した Devin Bhushan氏は、Splunkという企業でARエンジニアリングマネジャーとして働いていた経験を持っています。
Menlo Venturesという、Sequia Capitalと並んで初期からSquintを株主として支援するVCのブログには、Squint創業者Bhushan氏がSplunkを離れた後、AR技術が最も効果を発揮するシーンを特定するために行った試行錯誤の歴史が描かれていますが、その期間を経て同氏は製造業の現場作業者トレーニングというテーマにたどり着いたそうです。
同ブログによれば、「Devinは、製造業者が離職率の高さに悩んでおり、この差し迫った問題を解決する緊急の必要性が生じていることに気づきました。しかし、トレーニング方法は時代遅れで効果がありませんでした。Squint の非常に魅力的なプラットフォームは、工場のオペレーターをより迅速かつ効果的に訓練し、オペレーターの定着率を高めるのに役立ちます。」と書かれています。
「製造業における現場教育」というテーマは、スタートアップが解決すべき緊急性の高い課題として類されるのか?という議論を耳にすることは少なくありません。確かに教育とは「今日手を打たなければ明日事業が成立しない」という類のものではないかもしれませんが、「今日手を打たなければ10年後事業が成立しない」可能性は十分にあります。現場(に限らず社員)教育が対処すべき事業課題たり得るかどうかは、経営者としてどれくらいのスパンで事業リスクというものを考えているかによって変わってきます。
また、一概に製造業といっても、その中の業界や、その企業が工場を構える地域によっても人材をめぐる動向は異なり、人材に関する課題の緊急度も異なります。例えば、製造業といっても、半導体業界と製鉄業界では必要スキルや、スキルを身につけるまでに必要な期間は異なりますし、同じ半導体業界と言っても、日本と米国では社員の平均年齢・人材流動性ともに異なるでしょう。
そういった「人材教育」というテーマの難しさを踏まえると、SiemensやVolvoが顧客としてSquintを評価しているというのは、興味深い事実です。
Squintのプロダクト
Squintが開発しているのは、モバイルARアプリです。ターゲットユーザーである工場作業者は、Squintのアプリを利用することで、ITチームに頼ることなく、簡単に作業手順のデジタル化や効率的なトレーニングプログラム作成を実現することができます。
実際に私の手元でiOSアプリを使ってみようとしたところ、ダウンロードまではできましたが、顧客専用キーがないとログインはできませんでした。
ホームページを参考に、プロダクトの利用手順をご紹介します。
ユーザーはまずアプリ上で一連の作業動画を撮影します。すると、アプリがその動画をARコンテンツに変換する手順をガイドしてくれます。例えば、バルブの圧力ゲージを記録するというタスクに際して、モデルとなる作業員の動作を動画撮影すると、
バルブ付近の設備表面を清掃する
バルブを反時計回りに回転させる
バルブに書かれたゲージを読み上げる(音声記録画面が立ち上がり、音声で数値入力を行う)
バルブの写真を撮影する(写真撮影機能が立ち上がり、その場で撮影が可能)
といった具合に、手順が勝手に分解され、デジタル手順書がつくられます。もちろん、後から手順の編集は可能になっています。
(Source: https://www.squint.ai/)
そして、実際にメンテナンスを行う際、作業者は手順がわからない場合、デジタル手順書を立ち上げ、カメラで対象物を写すと、ARで指示が書き込まれたデジタル作業手順書をモバイル端末上で確認することができます。
(Source: https://www.squint.ai/)
テクノロジー
解説文を見る限り、裏側で動いているのは生成AI技術です。まず、動画からタスクをいくつかのステップに分解し、言語化する部分でAIが用いられていると考えられます。また、アプリは自動翻訳に対応していますが、この部分も生成AIが自動変換しているようです。作業者は好きな言語でARに表示されたテキストガイドにアクセスすることができます。近年日本でも日本語を母語としない作業者が増加傾向にあるため、今後はこのような機能が重要になっていくかもしれません。
また、アプリ内部ではセマンティック検索(キーワード検索ではなく、クエリ文と意味的に近い文章を検索することができる技術)が可能になっており、作業者は自分の言葉でタスクに関する不明点を聞き、AIアシスタントから回答を得ることができます。
さらに、デジタル手順書にはファイルを紐つけることが可能になっており、作業者が抱えた不明点に対して、アップロードされたドキュメントファイル(例えば、設備取扱説明書のような)が回答根拠にもなり得ます。ここでは、Retrieval Augmented Generation(検索拡張生成)という技術が用いられています。これは、外部ソースから情報を参照しながら回答を生成できる技術ですが、これを用いることで、該当タスクに関連するノウハウ・災害事例等にアクセスできるようになります。
生成AIによって製造業×ARの何が変わるのか?
ここからは私の考察も含まれてきますが、Squintのプロダクトイメージを見て考えた「生成AIによって製造業におけるAR活用がどう発展していくのか」について共有していきたいと思います。
まず、これまで製造業領域におけるAR系・動画系プロダクトが抱えていた課題の1つが「コンテンツ作成コストが高い」ことです。そもそもARオブジェクトや動画コンテンツつくるためには専門知識を持った人材が必要である、作成するには時間がかかる、等の制約がありました。製造業における作業手順は膨大にあるため、このコンテンツ作成コストは大きな負担になります。
生成AIは、この課題を解決できるかもしれません。生成AI(特に文章・動画・音声等のメディアを横断するマルチモーダルAI)によって、動画をAIがほどよい作業単位に分割し、それを元に解説テキストを生成する、ということがほぼ自動的に可能になります。すると、前述の通り、ユーザーは動画を撮影して、関連するドキュメントをその作業タスクページにアップロードしておき、指先だけでARオブジェクト(矢印・ハイライト・ポップアップ等)を追加するだけで、簡単にデジタルコンテンツをつくることができます。
また、「動画」「AR」という切り口で作業手順をデジタル化することで、新たな市場が勃興しそうな気がします。
まず、作業手順書が現状どのように保管されているかというと、多くの日本企業では、手順書がエクセルで作られ、紙のバインダーにしまわれているか、あるいはPDFの形でイントラサーバーの中に保管されています。これは、実際に製造業の方にヒアリングをしても、多少の違いはあっても当てはまっていることが少なくありません。
これは、作業手順書にアクセスするハードルが高い状態と言えます。作業手順書のアクセシビリティが低いと、当該作業に関する「更新情報」が蓄積されていくのが難しくなります。
例えば、先ほどの「バルブに書かれたゲージを記録する」という作業には、「バルブを回して開ける」というサブタスクがありますが、バルブが故障していた場合、あるいは硬くて回らない場合、何かしら手順書を更新する必要があります。しかし、手順書のアクセシビリティが低いと、その時講じられた対策は、関係者の「頭の中」だけに蓄積され、その方々が引退すると忘れ去られてしまいます。バルブの開け方なんて小さなことに思うかもしれませんが、もしこれが1分1秒を争うようなシチュエーションの場合、「過去の解決策にすぐアクセスできること」には何十万・何百万円の価値があります。もしそういった情報が手に入らない場合、「あの時どうやって対策したんですか?」と、当時の状況を知っている社内の人を探し回って時間を浪費してしまうことになりかねません。
この問題は、デジタル作業手順書に更新情報を追記していくことで解決できるかもしれません。日々の作業に関する気づきや改善点を、デジタル作業手順書に加えていき、どんどんデータを溜めていきます。この状態で、作業手順書に生成AI機能を搭載すると、このデジタル作業手順書はベテランAIのような存在になり、作業手順に関するあらゆる疑問の解消をサポートしてくれる集合知になり得ます。
また、作業手順だけでなく、安全に関する情報を組み合わせることもできます。例えば、先ほどの「バルブのゲージ記録」作業において、ある時「バルブから漏れた蒸気で火傷をしてしまった」という事故が発生したとします。こういった際、災害報告書が作成されますが、この情報が作業手順書と紐つけられているケースは珍しく、バラバラな情報として保管されているケースが多いです。安全に限らず、品質情報も同様です。ある作業手順が原因となって品質異常が発生した際、デジタル作業手順書に品質異常報告書が紐つけられていることは稀です。
しかし、もしデジタル手順書の中に、災害情報・品質情報が保存されていれば...、作業に入る前に、災害リスク・品質リスクのシミュレーションコンテンツを見ることができるかもしれません。バルブから蒸気が突出するリスクや、バルブが急に外れてしまうリスク、それらを頭に入れた上で作業を行えるようになります。
このように、作業手順・災害情報をデジタル統合することで、より作業者にとって意味のあるコンテンツが生成できるようになるかもしれません。今回は製造業をモデルにご紹介しましたが、現場を持つ産業には広く該当するようなテーマだと思います。生成AIは、現場・現物の情報をデジタル保管するコストを下げ、また、その情報を更新するコストを下げます。さらに、情報をさまざまな形(文章・動画・音声等)で抽出するコストも下がります。
こうしたコスト削減によって、これまでなかなか進んでいなかった集合知形成が今後は進んでいくかもしれません。
IDATEN Ventures(イダテンベンチャーズ)について
フィジカル世界とデジタル世界の融合が進む昨今、フィジカル世界を実現させている「ものづくり」あるいは「ものはこび」の進化・変革・サステナビリティを支える技術やサービスに特化したスタートアップ投資を展開しているVCファンドです。
お問い合わせは、こちらからお願いします。
今回の記事のようなIDATENブログの更新をタイムリーにお知りになりたい場合は、下記フォームからぜひ IDATEN Letters に登録をいただければ幸いです。
Comments