この記事を執筆している2022年7月上旬、日本では再びCOVID-19感染者が増えてきているようです。不慣れなマスクの着用に始まり、リモートワークへの移行等、私たちの生活はCOVID-19によって着実に変化しています。
こうした変化は、ものづくりの世界でも起きています。インドの自動車部品大手Motherson Sumi Systemsのレポートには、COVID-19時代以前のIndustry 4.0は「便利なもの」として認識されていましたが、パンデミックによって企業が不安定な状況を乗り越えるために「必要なもの」として認識されるようになった、と書かれています。「Industry 4.0」という言葉を打ち出したドイツでも、COVID-19がIndustry 4.0の流れを加速させている、というレポートが見られます。
そして、近年目覚ましい急成長を遂げているASEANでも、製造業デジタル化の動きが顕著となっています。例えば、インドネシアで2021年12月に開所した「Industry 4.0 Center」は、その象徴とも言えるでしょう。
こういった背景もある中、2022年7月にIDATEN Venturesから、シンガポールに本社を置きデジタルマニュファクチャリングプラットフォームを展開するArcstoneへの出資を発表しました。それに関連して、今回のブログではASEANにおけるIndustry 4.0をテーマとすることにしました。中国に代わって"世界の工場"になるか?と期待されるASEANにおいて、Industry 4.0がどれくらい進んでいるのか、さらなる成長可能性がどこにあるのか。Arcstoneの事業を紹介しつつ、ASEAN全体にも目を向けていきたいと思います。
(Source: https://pixabay.com/ja/illustrations/幾何学的-デザイン-1732847/)
Arcstoneについて
Arcstoneは、2013年にシンガポールで創業されたスタートアップです。製造業分野の顧客向けに、IoT・ソフトウェアから構成されたデジタルマニュファクチャリングプラットフォームを提供しています。
Arcstoneのプロダクトラインナップは、顧客の事業規模・ニーズに応じて、3種類に分かれています。
中小製造業、デジタル化初期フェーズの顧客 → arc.lite(アーク・ライト)
大手ローカル製造業、多国籍企業 → arc.ops(アーク・オプス)
グローバル大手製造業 → arc.net(アーク・ネット)
それでは1つずつ見ていきましょう。まず、arc.liteは、主に中小製造業向けのクラウド型製造実行システム(MES=Manufacturing Execution System)です。顧客はarc.liteを利用して、以下のような業務をノーコード(ドラッグ&ドロップ)で実行することができます。ちなみに、arc.liteは無料で提供されています。
営業注文管理 どんな地域の、どんな顧客から、どんな製品が、どのくらい注文されているのかをダッシュボード上で確認。
ワークフロー設定 製造手順の設定。例えば、アッセンブリ(組立)→品質検査(→磨き)→梱包という工程に、それぞれ何分かかるかセット。
生産スケジュール設定、ワークステーション管理 何月何日何時から何分間機械を稼働させるか、実績では何分かかったのか、の予実管理。
設備モニタリング 工場全体の機械の稼働状況がダッシュボード上に表示され、一定以下の稼働率の機械はアラートが発信。
arc.liteは、作業内容・在庫量等の記録を作業者の手動入力で実施しますが、次にご紹介するarc.opsでは、この入力作業が自動化されます。arc.opsは、あらゆる機械・センサーとつながり、自動的に設備・生産状況・在庫等のデータを収集してクラウド上に表示します。さらに、arc.opsはarc.liteにいくつかの機能が加わりますが、以下その一部をご紹介します。
設備総合効率管理(OEE=Overall Equipement Effectiveness) 設備ごとの製造履歴、効率、非稼働時間を全て一元管理する機能。非稼働時間は、なぜ設備が動いていなかったのかという理由まで解明し、記録する。さまざまな種類の設備に対応できるよう、広範な通信規格に対応。
設備メンテナンスシステム(EMS=Equipment Maintenance System) 設備メンテナンスのスケジューリングと実行管理を実施。
ノーコードアプリ作成 操業に影響を与え得るイベントの検出を管理するアプリケーションを作成することが可能。例えば、その企業だけが知っている「違和感」(≒トリガー)を設定し、それが発生した時に、メール・SMSでアラート発信を行う等。
そして、arc.netは、arc.lite・arc.opsを通じてデジタル化された工場を、サプライチェーン全体で可視化するツールになります。例えば、サプライヤー工場にarc.lite、arc.opsが導入されていれば、サプライヤーの状況をリアルタイムでモニタリングすることができます。ドイツで作っている部品に生産遅れが発生している、インドにある組立ラインが故障した等、1つのソフトウェアプラットフォーム上で把握することができます。これによって、グローバルに広がるサプライチェーンで起きていることをリアルタイムで把握し、納期の高精度予測、それに応じた注文管理、そして何かリスクが発生した時の意思決定をスピーディに行うことができます。
Arcstoneは優れたUI/UXのプロダクトを提供していますが、こうしたデジタルソリューションを伝統産業のスタンダードにしていくのは簡単ではありません。Arcstoneのブログには、「COVID-19の状況とはいえ、過去数十年にわたり同じような方法で運営してきた従来のオペレーションを変革しなければならないのは、やはり大変な作業です。」と書かれています。そして、Arcstoneはこの課題に対して2つの施策を採っています。
それが、arc.liteの無償提供、そしてデジタル人材教育です。前者は直接的な中小企業支援で、どんな中小企業でもarc.liteを無料ですぐ使い始めることができるようになっています。そして後者は、間接的な中小企業支援です。Arcstoneは、シンガポールの大学と連携し、学生にArcstoneのツールを提供し、中小企業の現場に参加してもらっています。
中小企業からすると、Arcstoneのツールを無料で使うことができるばかりか、さらにそれを使いこなせる人材プールを確保することで、将来の事業継続可能性を高めることができます。この2点については、重要な点になりますので、また後ほど登場します。
ASEANにおける製造業とIndustry 4.0
この章では、ASEAN経済における製造業の位置付け、そしてArcstoneが進めようとするIndusty 4.0に対する期待、という観点で見ていこうと思います。
ASEANにおける製造業の位置付け
ASEANは現在、東南アジア10か国(インドネシア、カンボジア、シンガポール、タイ、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス)から構成されています。
ASEANの2000年〜2018年におけるGDP推移を見てみると、年々右肩上がりになっています。
(Source: https://keikakuhiroba-mfi.com/archives/20955)
ASEANのGDPに占める農業・製造業・サービス業の構成比は、これまでそれほど劇的には変わってきていませんが、製造業(製造、電気、ガス、水道、鉱業、採掘業)の割合は少しずつ減少してきています。
(Source: https://keikakuhiroba-mfi.com/archives/20955)
一方、ASEANにおける製造業のGDPを絶対値で追ってみると、着実に伸びていることがわかります。
(Source: https://keikakuhiroba-mfi.com/archives/20955)
こちらのサイトは、その理由として以下の理由が挙げられます。
ASEANの人口増加
相対的に安価な労働力が魅力となり世界の製造業の生産拠点が集積し始めていること
もちろん、一口にASEANといっても、各国の特徴はそれぞれ異なります。こちらの資料には、ASEAN各国の製造業のGDP推移が書かれています。
例えば、インドネシアは2010年を基点に、2019年までの10年間で製造業のGDPが+51.8%増加。マレーシアも2015年を基点に2019年までに+20.1%増加、シンガポールも、起点が少しわかりづらいですが、2010年から2019年にかけて+22.7%増加。一方でタイ・ベトナムは2011年ごろからそれほど大きくは伸びていません。
(Source: https://www.aseanstats.org/wp-content/uploads/2020/12/ASYB_2020.pdf)
さらに、製造業の中にもさまざまな分野があり、先ほどの資料では、飲食料品から機械・医薬品・電子機器まで約20分野に分けて、各国の分野別GDP成長率が紹介されています。一部の国をご紹介しますと、例えばインドネシア製造業の成長を牽引しているのは、食料品、アパレル・革製品、医薬品です。製造業全体のGDP成長率が10年間で+51.8%に対し、食料品は+111.9%、アパレルは+61.1%、革製品は+74.2%、そして医薬品は+135%です。
マレーシア製造業は、製造業全体の成長率が20.1%に対し、アパレル+27.2%、コンピューター関連製品+27.7%、家具製品+32.0%、機械修理+31.2%等が、平均より高い成長率を見せている分野です。
ASEANのIndustry 4.0
この章では、マッキンゼーが出しているASEANにおけるIndustry 4.0に関するレポートを参考に、ASEAN製造業の課題とIndustry 4.0の可能性について見ていきます。
なお、「そもそもIndustry 4.0が何か」という点については、インターネット検索するとたくさんのレポートや記事がヒットするため、ここではあくまでASEANにおけるIndustry 4.0の現状と可能性、という観点でご紹介します。
まず初めに、レポートの冒頭で、いわゆる先進国(レポートでは、アメリカとドイツが名指しで紹介されている)が新興のデジタル技術を活用しようとする動きの速度に対して、ASEANのメーカーは比較的動きが「鈍い」と指摘されています。
ASEANの製造業の特徴は、「人件費が安価」な一方で、「労働生産性が低い」ことであるようです。以下のデータを見ると、シンガポール・マレーシアを除くASEAN各国の人件費は中国の半分以下である一方、労働生産性は約1/4以下となっています。
(Source: https://www.mckinsey.com/~/media/mckinsey/business%20functions/operations/our%20insights/industry%204%200%20reinvigorating%20asean%20manufacturing%20for%20the%20future/industry-4-0-reinvigorating-asean-manufacturing-for-the-future.ashx)
一方、こうした状況下で、ここ数年、多国籍企業を中心にASEAN地域の工場の生産性を向上させる取り組みが進んでいます。例えば、ドイツの半導体大手Infineon Technologiesは、2017〜2021年の5年間で7,000万ユーロ(≒90億円)を投じ、シンガポール工場をスマートファクトリー化しています。
また、民間だけでなく、官民学が協力して次世代製造業の実現を目指そうという動きがシンガポールを中心に見られます。その代表例がARTC(The Advanced Remanufacturing and Technology Center)です。ARTCはシンガポールの科学技術研究庁(官)が主導し、南洋工科大学(学)、80社以上の多国籍企業〜中小企業(民)が連携して、研究技術から産業応用を進めていくためのコンソーシアムです。
(Source: https://youtu.be/t8HbzOKCMUU)
なお、ARTCには、日本からはIHI・小松製作所・富士通等の大手企業が参画しています。Arcstoneは、Tier1メンバーとして、中核メンバーの1社に名を連ねています。
(Source: https://www.a-star.edu.sg/artc/members/current-industry-members)
Arcstoneは、ARTCとの連携を通じて、対応できるハードウェア・ソフトウェアの種類を格段に増やし、さまざまなインフラ状況の顧客ニーズに応えてきました。2021年、ArcstoneはARTC内に共同研究所を創設し、2021年から3年間のうちに、1,800万シンガポールドル(≒15億円)の投資を行うと発表しました。今後、ArcstoneとARTCの連携はさらに大きな意味を持ってきそうです。
官民学で一体となって、製造業のあり方をアップデートしようとする動きがある中で、ASEAN各国のものづくり関係者は、Industry 4.0を目指すデジタル化の動きに前向きであり、もたらすであろうポジティブな効果を期待しているようです。マッキンゼーが行った意識調査では、Industry 4.0に対して、「認知度」が81%、「チャンスだと捉えている」が93%、「昨年よりポジティブに捉えている」が63%と、忌避感は少なさそうです。一方、「具体的な施策レベルで着手している」は13%にとどまっており、まだまだポテンシャルを秘めています。
具体的に着手する段階までの主な課題として挙げられているのが、以下の5つです。
バリュードライバーの発見と経済性評価 まだそれほど多くないIndustry 4.0の成功事例の中から、自社の業界で応用可能なものを探し、かつ「何の数値を下げる(上げる)ことが、収益にポジティブな影響を与えるのか」(≒バリュードライバー)を見つけるのが難しい、という点が指摘されています。IoTを活用した設備の予知保全といっても、企業によって事業規模も違えば、稼働している設備も違います。Industry 4.0を成功させるためには、バリュードライバーを見つけ出し、定量的な投資対効果計算を行わなければいけないが、それを実行できる人材はそう多くない、と紹介されています。
サイロ化するシステムとデータの分断 これは日本でもよく指摘されていることですが、1980年代以降に構築したITシステムは、カスタマイズが重ねられ、気づくと業務プロセスは特定部門に個別最適化され、データがバラバラに散らばってしまっている、という問題が生じています。ちなみに、IDATEN Ventures 投資先のシマントは、サプライチェーンにおけるこの課題に取り組んでおり、システムを改変することなく、上位レイヤーで仮想的にデータ統合を簡単に行うことができる技術を持っています。
セキュリティリスク Industry 4.0の実現には、分散したデータを集める中央集権システムが鍵になりますが、昨今の世界的なサイバー攻撃の増加により、「繋がりすぎた」システムに対する不安の声が挙がっているそうです。(ちょうどIDATEN Venturesから、ものづくりにおけるサイバーセキュリティの課題についてブログを公開していますので、もしよろしければご参考ください。) リスクの高いベンダーが提供するツール・設備を利用していないか、従業員にセキュリティ教育を実施しているか、セキュリティチェックが標準的なオペレーションの中に組み込まれているか、等が重要なポイントになると紹介されています。
外部人材の確保とインテグレーション Industry 4.0が導入されると、より大きな付加価値を生む業務が、データ利活用のレイヤーに移行していきます。データ人材が元々多い企業を除いて、こうした業務を実行するためには外部から人材を採用する必要があります。一方、外部採用者が溢れすぎてしまうと、企業文化やモラルが乱れてしまう場合もあり、既存メンバーと新規メンバーの強みをうまく組み合わせるインテグレーションが鍵になります。
インセンティブシステムの設計 新しい業務プロセスが導入されると、優先順位や戦略が変更になり、それに応じて「社員のshould do / should not do」が変わります。社員の意識を変革できるよう、「どういう行動を取った社員が、この企業においては評価されるのか」の明示と運用が求められます。
こうして、ASEANにおけるIndustry 4.0の現状と課題を見てみると、必ずしも(ソフトウェア・ハードウェア)プロダクトの良し悪しだけが、成功の要因というわけではないかもしれない、という点が興味深いと思いました。導入企業におけるIndustry 4.0人材の採用、社員のセキュリティ教育、社内インセンティブ設計を含めた「サービスを提供していけるかどうか」も重要です。その点、Arcstoneが行っている大学との連携を通じた人材教育は、中長期を見据えた戦略となっています。
まとめ
改めて、ASEANにおけるIndustry 4.0、そしてArcstoneの戦略・成長可能性について整理してみます。
まず、ASEANにおけるIndustry 4.0の実現は、「取り組むことに対してはポジティブ」な一方で、いくつかの課題によって「まだまだこれから」のフェーズにあります。この課題をいかにして取り除いていくか、が鍵になると思います。
そして、その「いくつかの課題」とは、本日紹介したものに限っていうと、「バリュードライバーを見つけ、経済性評価を行う」「サイロ化したシステムから、データを収集する」「セキュリティリスク」「人材確保」「インセンティブ設計」でした。
そして、(ここでご紹介するのは一部ですが、)Arcstoneはこうした課題を解決する施策を次々と実施してきました。
「バリュードライバーを見つけ、経済性評価を行う」 →中小企業向けのプラットフォームであるarc.liteを無償提供する。デジタル化の敷居を下げ、効率化(バリュードライバーの発見)が進んでから、arc.ops・arc.netといった応用プロダクトを提供。
「サイロ化したシステムから、データを収集する」 →ARTCとのパートナーシップを通じて、データ収集できるハードウェア・ソフトウェアの種類を拡大。
「人材確保」 →シンガポールの大学と連携し、Arcstoneのツールを用いた実地教育プログラムを策定。中小企業の人材採用母集団を形成。
最後に強調したいトピックとして、Industry 4.0実現には「コミュニティで一緒につくる」ことが重要なのではないかと感じました。1社だけで完成されたプラットフォームをつくって顧客に提供するのではなく、官民学を巻き込んだ「実験場」で、ベンダー・プラットフォーマー・顧客が「一緒に議論」しながら、「顧客が真に欲しがるものを一緒につくる」というアプローチです。
もちろん、各ステークホルダーの意見を全て取り入れ、最大公約数的なプラットフォームになってしまっては、かえって誰にも刺さらないプロダクトになってしまう可能性もありますので、そのあたりのプロダクトマネジメントは重要です。ただ、官民学で一緒になって次世代製造業をつくっていこうとする動きは、日本でも参考になる部分が多いかもしれません。
IDATEN Ventures(イダテンベンチャーズ)について
フィジカル世界とデジタル世界の融合が進む昨今、フィジカル世界を実現させている「ものづくり」あるいは「ものはこび」の進化・変革・サステナビリティを支える技術やサービスに特化したスタートアップ投資を展開しているVCファンドです。
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