日本が大きく変わった明治維新。その背景には維新志士と呼ばれる人々の躍動があった。
本コラムでは、その維新志士に求められたという条件と、現代の起業家に求められる条件の類似性を考えたいと思う。
参考文献は、山岡荘八による「高杉晋作」(1966年初版)である。
江戸末期、黒船来航で揺れに揺れる日本において、自分は何をすべきかを思い悩む22歳の高杉晋作が笠間藩の加藤有鄰を訪ねた際、その加藤からこう言われている。
志士の条件は、詩人・無頼・至誠である。
世界を大きく変えようとする志士に求められる第1条件としてあげられた「詩人」というのはつまり、自分たちがなそうとしていること、目指すところを誰にも分かりやすく、人々の心に響くように表現することができる人であれ、ということだ。
これは以前のコラム「起業家に求められるマインド」にも書いた点と一致している。維新であろうが起業であろうが、何らか、世界を変えようとしている。それがどんな世界であるかを分かりやすく表現できないと、周囲の人からは関心すら持ってもらえない。気づいてすらもらえない。それでは何も始まらない。世界を変えたければ、まずは第一級の詩人になる必要がある。
第2条件としてあげられた「無頼」について、加藤は次のように述べている。
人間は心の中に、八、九分まで無頼の属を棲まわせている。したがって無頼をとがめる立場に立つと、人間の八、九分までを敵に廻さなければならなくなる。無頼を無頼のまま抱きとって時勢の大河に流してやるのだ。
これは起業家の性格にもそのまま当てはまろう。真面目一辺倒の性格では、一緒にいても周囲の人が疲れてしまって、窮屈で、結局は多くの人は集まらず、大きなことを成し遂げることができないだろう。清濁併せ吞む懐の深さが求められよう。
高杉は加藤からの言葉に対して、こう言っている。
確かにそうだ。無頼さの足りない人には陰気さがまつわりつく。無頼さとはまた、話せる人間の一面にも通ずる別福でもあるようだ。
ただ、無頼でさえあればよいかと言うと、そうではないから第3条件に至誠があげられている。無頼だけが突出すると、自分勝手な行動が目立ち、周囲から信頼を得にくくなる。あるいは暴走傾向が目立ち、合意形成を甘く見て周囲を置き去りにしがちとなる。賢明な人からは距離を置かれ、逆にそういう相手を利用してやろうという無頼の徒ばかりが集まり、インテグリティやコンプライアンス意識の低い頽廃した組織となる。たまに、行き過ぎて法を犯してしまう企業のニュースが流れるが、至誠が欠けている最たる例だろう。
さて、高杉に志士の条件を伝授した加藤は、無頼と至誠について、こうまとめている。
古来、偉人英雄といわれるほどの者は、みなこの無頼さと至誠の花で支えて来た人々じゃ。至誠の支えがあると奇行はそのまま奇略と化し、失敗はそのまま人気のもとともなる。ところが至誠の花が添えてなければ、無頼はただの道徳破壊、これでははた迷惑、近所迷惑じゃ。
まさに、維新と同じく世界をよくしようとする起業家にも、詩人・無頼・至誠が求められるのではないだろうか。
興味深いのは、これが記されたのはインターネットもない1966年のことであり、さらにはそこで書かれている舞台は電話すらない江戸末期ということだ。
情報革命あるいはIT革命が人々の生活スタイルを一変させ、その上でいろいろなスタートアップが興って久しいが、根本にある人間そのものは、今も昔も本質は変わっていないことを改めて認識させられる。ということは、人間理解なしでは、そもそもどんな技術をもってしても、世界を変えることはできないのではなかろうか、とも思われる。
余談だが、そうした人間理解のために、歴史小説ほどよい題材はないと思っている。
皆さんは、どう思いますか?
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